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北陸中日新聞(2019年5月24日、25日)




北陸中日新聞(2019年5月24日付1面・9面、5月25日1面・7面)にて、
弊社の創業142年の歩みが掲載されました。
前編

【 5月24日 1面 】

■掲載内容

蚕2頭奏でる「しけ絹」

なめらかな肌触りで、柔らかな光沢をみせる絹。富山県南西部の南砺市城端では「城端絹」と呼ばれ、約450年の歴史がある。海外産の安い繊維に押されて絹織物業者が減る中、創業142年を誇る。 松井機業が手がけるのが、全国でも珍しい「しけ絹」。ごくまれに2頭の蚕が一緒になって作る「玉繭」の糸で織りあげると独特な節目の模様ができる。
しけ絹は城端伝統の織物だ。ただ、節目があるために和服向けの上等品とはならなかった。代わりに、この地域では裏に和紙を貼った「しけ絹紙」が考え出された。ふすま紙や日よけとして使い日光が当たると、つややかに輝く。売り先を増やそうと、松井機業の初代・松井文次郎が本格的に手がけ、質感の高さが人気を集めてきた。

6代目見習いの紀子(34)は「城端には昔からアイデアマンがいたんですね」と感心する。父で5代目の現社長、文一(71)は「代々、売れる商品を作れと言われてきた」と振り返る。文一と紀子があいさつに差し出すのは、しけ絹紙を使った名刺。文一は笑う。「絹の市場は縮小傾向。商談でどんなに厳しいことを言われたとしても、この名刺なら相手方に印象づけられるでしょ」
(9面に続く)

【 5月24日 9面 】

■掲載内容

苦境を生き抜く知恵

富山県南砺市城端で栄えた絹織物は、戦国時代末期天正年間(1573-92年)に生まれたと伝わる。江時代、城端絹は石川県小松の絹織物とともに「加賀」として加賀藩に守られ、京都や江戸に運ばれて栄える。1693(元禄6)年ごろの記録によると、城端の689軒のうち、375件が絹織物に携わっていた。

初代・松井文次郎が1877 (明治10)年、松井機業を立ち上げた。「当時、城端は機屋が多く、事業を起こそうとすると絹織物しかなかったのでは。ここではそういう町」。5代目の文一(71)は語る。 創業以来、和装向けに加え、しけ絹に和紙を貼ったしけ絹紙も手がけた。2代目・文次郎は品質と生産効率を上げた。明治から昭和にかけて和室の広がりとともに、ふすま向けが着実に売れていく。だが、太平洋戦争の戦禍が襲った。「絹で軽いパラシュートを織れ」。1945(昭和20)年8月、軍が指示をだす。出征した男性が多く、残ったものでほそぼそと絹を織っていたころ。「とうとうこの日が来たか」。女性や高齢者、子どもらで備えるうちに終戦を迎えた。 文一の祖母で、三代目文次郎の妻みどりが生前、文一に語った話だ。「軍事工場になれと言われたが、ならずにすんだんや」

終戦後、絹はぜいたく品とされ、ふすま向けも和服向けも売れず、絹を貼った洋傘を作って糊口をしのいだことも。「粗悪品で雨が降ると染料が落ちて黒くぬれたって文句が来たよ」。みどりが話した笑い話を文一は思いだす。モノの無い時代だったので、それでも売れたようだ。 四代目・文吉は、しけ絹紙を壁紙として欧米へ輸出し始めた。「SIKESILK PAPER」と書かれ、青やピンクなど淡い色調で染めた色見本が今も残る。商社を通じて年間数十~数百件単位で輸出した。文一は「文吉の意欲が強かったのだろう」と亡き父、文吉のたくましい商魂に思いをはせる。

文一は大学を出た後、京都の和装問屋で修行し、1975年に家業に入った。文吉の精神を受け継ぎ、親戚のブティックのつてを頼って、東京のアパレル会社に飛び込み、絹織物を洋風にした新作を売り込むと「洋装に向かん」とこてんぱんにされる。それでもめげず、豊かな発想を生かしてシルクの入浴剤やランプシェードなど、時代に即した新商品を考え出してきた。 和装文化の先細りで絹の消費量が減る中、松井機業はインテリア向けに活路を見いだ して持ちこたえた。ただ、戦後間もないころ、最大80人いた従業員は一桁に。城端で明治期に30軒あった絹の機織り屋は松井機業を含めて2社のみに減った。化学繊維と安価な外国産に押され、絹織物の苦境が続く。
(嶋村光希子)





所在地
〒939-1815 富山県南砺市城端3393
ショールーム (平日13:00~17:00 / 土日休)
電話
0763-62-1230 (平日9:00~17:00)
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